1998.6頃
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ボランティア活動開始宣言
納谷聖司代表「我々シャペウは、ただエスパルスを応援するだけでなく、何か世間の役に立つ事をしたい、そういう応援団にして行こう!!」
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『サッカーボールを世界の恵まれない子供達に贈りたい!!』という趣旨で運動開始
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難民高等弁務官事務所(東京・青山)を訪問、活動の相談
納谷代表、遠藤団長、本部メンバで「どうやったら、世界の恵まれない子供達にサッカーボールを贈れるか」を相談。しかし、受け付けることができるのは『現金』のみで、『サッカーボール』は受け付けていないとの回答。また、たとえ『現金』を寄付しても、食料・医薬品・毛布・衣料品…といった使われ方が優先的になり、サッカーボールは選択肢の中に入っていないとのこと。
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難民高等弁務官事務所を通しての『サッカーボール』寄贈は断念
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他の「難民救済の会」等に趣旨を説明、相談
芸能人の人たちで作っている「じゃがいもの会」や他の民間の「難民救済の会」に相談。しかし、いずれも『現金』で現地の団体に送るしかないのでは…との回答
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「何としても、この目で子供達がボールを受け取る姿を見たい」という気持ちが強くなり、自分たちで直接送るのが一番いい方法との結論
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1998年末
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シャペウクリスマスパーティー
シャペウクリスマスパーティー等の売り上げをボランティア活動資金に
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『日本から世界の難民の子供達へサッカーボールを送ろう』と活動開始
日本からボールを送ると、500%〜1000%の関税がかかることが判明。戦争が終わったばかりの国々は、国内の産業を保護・育成するために、外国から入ってくる物資については、とてつもない関税をかけることがわかる。
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「サッカーボールは、直接担いで現地に持って行くしかない」と結論
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1999.2頃
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KAZUが橋渡し
クロアチアに渡っていた納谷代表が、日本人記者との雑談の中で、シャペウのボランティア活動について話し、その後、新聞に取り上げられる。
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「納谷代表率いる応援団シャペウラランジャが、難民の子供達にボールを贈りたい。その橋渡しをKAZUが買って出てくれた」
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1999.5.15
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PUMA社の全面協力でボール150個を準備
ボールメーカー・PUMA社が全面協力、サッカーボール150個の提供を申し出。シャペウ本部事務所にスタッフが集まり、PUMA製のサッカーボール1つ1つにシャペウのマーク、日の丸、JAPANの文字をプリント。通し番号を150番まで書き上げ、さらに、ボール20個入りのバックを8個荷造り。
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「シャペウが直接難民キャンプへサッカーボールを届ける」
「KAZUがクロアチア難民への配布に協力してくれる」
「難民ボランティア協会会長でもあるクロアチア・ザグレブ会長夫人の全面協力を得る」といった具合に準備が着々と進行
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1999.5.22
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「クロアチア・KAZUオフィシャル観戦ツアー」に参加、現地へ
150個のボールの運搬・配布に最低2名が必要なため、納谷代表と団員の山田氏がJTB主催の同ツアーに参加。同時にボールを運搬。
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1999.5.23
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クロアチア・ザグレブに到着
成田を出発。10時間かけてクロアチア・ザグレブへ。しっとりとした静かな町。この国の人は皆、背が高く、美男美女ばかり。
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1999.5.27
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ザグレブ近郊のマラ・ゴリッツァの難民キャンプへ
ザグレブ市内から車で2時間あまりの国境の村、マラ・ゴリッツァにある難民キャンプへ。プレハブ一戸建ての小綺麗なキャンプ地で、500人くらいが住んでいる。この地区の責任者・マリアさんにボールを10個、配ってもらるようお願い。
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「子供達もすごく喜んでくれて、苦労してここまで運んで来て本当によかったなぁ〜」
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ワラジンの難民キャンプでもボールを寄贈
クロアチアに長年住んでいるシティーグリッチ・マスミ(下岡万寿美)さんがサッカーボールを10個持って慰問。また、同時にTシャツも持っていく。
→「そこでも子供達の大歓迎を受け、感謝状もいただきました」
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KAZUが所属するクロアチア・ザグレブを通して、残りのボールを配布
残りのボールは、KAZUが所属するクロアチア・ザグレブを通して、恵まれない子供達の施設に配布されるとのこと。優勝のかかった試合を、クロアチア大統領が見ているVIPルームで観戦。
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「クラブの会長にも喜んだいただき、最終戦の試合前にセレモニーを企画していただき、ボールの贈呈式をおこなっていただきました。観客のみなさんからも拍手をいただき、感無量でした。生涯忘れることのできない貴重な体験でした」
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