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【J通算100ゴール達成記念】

KAZUさん、J通算100ゴール達成、おめでとう!!

自分の記録用として始めたホームページ…にもかかわらず、
アクセスいただいている多くの方々に支えられ、ここまで、やってきて、
KAZUさんのメモリアルゴールを、そんな皆さんと共有できること、本当に嬉しく思います。
そのメモリアルゴールを記念して、
このホームページを通して知り合った「Rさん」のコレクションを掲載させていただきました。
1つ1つのユニフォームに、KAZUさんの歴史が思い出されて、誇らしく思います。

これから作っていく新たなる歴史も、ともに、見つめていきたいと思っています。
※「Rさん」お便り、ありがとうございます!

 

<93年>

Jリーグ開幕、全10チーム。
「ヴェルディ川崎」初代ユニ、通称「すいかユニ」。10チーム中、唯一、襟なし丸首ユニ。
1stステージは、「ヴェルディ内紛騒動」が新聞を賑わし、7位。
2ndステージは、第2節よりビスマルク加入。快進撃で優勝。
ナビスコカップは、KAZUたち代表不在の中、ビスマルク+若手で勝ち上がり、決勝で再びエスパと対決、優勝。
年明けに1stステージ優勝の鹿島アントラーズと対戦。ジーコも出場。KAZUのゴールもあり年間覇者。

<93年>

1stステージ、あまり調子の出ない中、神戸ユニバーでおこなわれたJリーグ・オールスター戦。
KAZUは、ラモス・リティ・木村和司など華麗な中盤とのパスワークから、2得点。MVPに輝き、車もゲット!

<92年〜94年>

オフトジャパン。92年、広島でおこなわれたアジアカップ優勝。KAZUは、「足に魂、込めました」とコメントしたイラン戦を含め、ゴールに、アシストに活躍、MVPに。
93年、4月より、アメリカW杯一次予選スタート。
4得点をあげたバングラデッシュ戦を含め、ゴールを量産。
同年10月、アメリカW杯最終予選、韓国戦で決勝ゴールをあげるなど活躍したが、いわゆる「ドーハの悲劇」でW杯出場ならず。
94年、ファルカンジャパン誕生。キリンカップ、アシックスカップなどの大会を経て、広島でのアジア大会へ。
怪我をおして帰国したKAZUが韓国戦でゴールするも、準決勝で敗れ、ファルカンは解任。

<94年〜95年>

イタリア・セリエA・ジェノア時代。
9月、セリエA開幕戦、背番号「9」でスタメン出場。サンシーロスタジアムにてACミランと対決。前半、バレージと激突、前半終了後、救急車で運ばれ、手術。
10月のアジア大会に帰国後、ジェノアに合流。チーム低迷のため、監督交代。
マルキオーロ監督時代、背番号「11」で、ジェノバダービー、サンプドリア戦にスタメンフル出場。1ゴールをあげる。

<95年〜96年>

95年8月、KAZU、ヴェルディへ復帰。
復帰第1戦、等々力で華麗な2ゴール。鹿島アントラーズ戦や横浜フリューゲルス戦などでハットトリック。
2ndステージで優勝するも、横浜マリノスとのチャンピオンズシップで敗れ、年間優勝を逃す。ネルシーニョの日本代表監督問題も起こる。
96年、年間1シーズンのJリーグ。
ドニゼッチ、カイコなどをブラジルから補強するも波に乗れず、ネルシーニョ監督が途中で退任。
後任にレオン監督が就任。マグロンなどをトップに据えた戦術の違いに注目が集まるチームは優勝を逃す。しかし、KAZUは初の得点王に輝く。
その後、レオン解任決定の中、天皇杯には優勝。

<96年〜97年>

ファルカン解任後、加茂ジャパン誕生。
2002年ワールドカップ日本招致の気運が盛り上がる中、キリンカップで、ユーゴスラビアやメキシコを打破。
その後、アジアカップに臨むものの、中東勢に敗れ、加茂監督解任騒動が起こるが、結局続投。
97年、フランスW杯予選を戦う。

<99年>

99年1月。クロアチアリーグ、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍。
ザイエック監督の元、スタメン出場を果たした最初の試合でPKを外す。その後、ゴールのないまま、チームも不振。
途中、ロンチャレビッチ監督へ交代。KAZUはノーゴール。

<99年>

8月、KAZU、クロアチアから日本へ。京都サンガへ移籍。背番号「36」。
8月28日の復帰第1戦、ヴィッセル神戸戦で2ゴール。途中、優勝戦線に絡むものの、その後、負けが続くが、J1に残留。

<99年>

10月、JOMOカップで、KAZUは、ロベルト・バッジョと競演。KAZU自身はノーゴール。

 

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